無観客の意味

広大なオリンピック会場の観客席は空席のみ。無観客開催と決まったので当然のことではありますが、テレビを見ていて思ったのは、観客が一人もいないというのがなんと異常なことか、ということです。


今や、ライブ映像のネット配信が当たり前となっているので、開会式も競技場でやらずとも各々のパフォーマンスを編集して配信すれば足ります。競技場でやる意義は多くの人々が各国から集まり、会場で繰り広げられるパフォーマンスに感動して拍手や声援を送る、その熱気を共有するところにあるのだと思います。


競技場にいる世界中の人々が発する熱い思いが、テレビやパブリック・ビューイングの画面で伝わり4年に一度の世界を巻き込む感動となるはずでした。無観客というのはこうした圧倒的熱量の欠落です。多くの観客が見守る中、競技をするアスリート達も観客の視線、応援を背に受けて、これまでの努力に基づく成果以上の奇跡ともいうべき力を発揮する場でもあったのではないでしょうか。


オリンピックというのは各国内での激しい競争を勝ち抜いてきたトップ・スリート達が、さらにそれぞれの国の威信をかけて世界一を決める場です。観客はその立会人として自分たちの国や選手にありったけのエールを送ることが許されます。そこで勝つにしろ、残念ながら敗れるにしろ、全力で戦った選手と共に心からの感動を分け合うことの出来る稀有な場所なのです。


コロナ感染拡大防止とオリンピック開催を両立させた結果、本来のオリンピック精神や深い感動が失われ、一人も観客のいない客席は「コロナに打ち勝つことの出来なかった人類」の象徴となってしまったように感じられました。


感染拡大防止を優先するのか、予定通りのオリンピック開催にこだわるのか、このような世論を二分するような二律背反は過去の歴史にも何度も起こっていますが、その都度世論はまとまらず、どうすればよかったのかの結論も出ていません。今回も急激な感染拡大により緊急事態宣言が発出される中でオリンピックを開催しながら、ステイホーム、酒の提供禁止という理解に苦しむ手段もとられています。


感染が爆発的に増えているのは人流が抑制されないからということですが、抑制されないのは緊急事態宣言に対する慣れや疲ればかりなのでしょうか。無観客にしてでもオリンピックはやるのに外出は控え外では飲酒も禁止という措置に納得がいかないというだけのことでしょう。公平、公正と感じられない命令や依頼には効果がないのです。


過去に起きた世論の分断は過去に例のない出来事に端を発しており、従って大多数の世論が納得するような処方箋も示されない中で、政治的に解決を迫られるという困難が伴っています。決断が正しかったのか誤っていたのかは歴史の判断を待たなければなりませんが、少なくとも、一部の利益のため他の犠牲を看過して下された決定は国力の低下を免れないというのが教訓となっていると思われます。