医療崩壊は防げるか

首都圏における感染拡大が止まらず、コロナ感染者用の病床が不足しています。病床確保のため救急や保健所が連絡を入れても空きがないとして断られ、治療を受けられないままに亡くなるという正に災害時の様相を呈しています。

これは経済社会で普通にみられる需要と供給のミスマッチによるもの。早急に治療を受けなければならないという切迫した需要に対して、病床や医療スタッフの供給が追いつかないというものです。このミスマッチを解消するため国はコロナ病床を増やした病院に対して一床あたり1950万(上限)程度の補助金を支払うことにより不足を補うという対策を打ち出しました。

しかしながら、正当な理由(医師・看護師、物資の不足等)があれば国や自治体からの勧告、命令を受けないことになっています。(厚生省ガイドライン)国からの支援金を受け取りながら、コロナ対応に消極的な病院も存在しており、正当理由に当たる病院がどのくらいの数にのぼるのか国も自治体も把握できていないと報じられています。

需給がミスマッチとなった場合、経済界においては価格によって自然にこの差が埋まってゆきます。また最近ではダイナミックプライシングなど、定価を動かすことによってギャップを埋めることが可能となっています。例えば航空機などのように座席数が一定の場合、この数に対して需要が大きければ価格を上げ、少なければ下げるという方法です。

コロナ感染のような緊急を要する医療に対して上記のような需給調整を導入できれば、病床を提供した病院や医療スタッフにはより高い医療費や報酬が支払われます。(現状は定額の診療報酬や給付の引き上げという対策。費用対効果に難点)そうなると、強制やお願いをしなくとも医療スタッフの供給は増えてゆくと思われます。

現状ではコロナ患者に対応出来る体制を早急に作るのが第一優先なので、関係法規によってこうした仕組み導入が制約を受けているなら法律を変えることが優先事項。自治体からはロックダウンが出来るようにしてほしいという要望が出ていると報じられていますが、優先順位が違うのではないでしょうか。

このような変更を実施する場合、病床数やコロナ対応可能な医療関係者の数、空きキャパシティーなどの情報を瞬時的確に把握する必要が欠かせません。IOTやAIなどを駆使してネットで救急や保健所に提供し患者をすぐに搬送できる体制が必要です。(現状はG-MIS、
HER-SYSがありますが医療機関等による人手の入力が必要。緊急性や正確性に難点)

例えばコロナ病床や患者に装着したセンサーでデータ収集、分析を行い、症状の変化を瞬時に把握。病床の空き予測等に使用して、データが即時に医療現場や救急に伝達される等。又コロナ患者のCT画像診断にAIを使用してコロナ肺炎についての医師診断時間を大幅短縮するなどが考えられます。

患者のたらい回しや放置等あってはならないことを防ぐ為にも、デジタル技術を駆使できる体制が医療報酬改定とセットで実現される必要があります。幸いにも9月からはデジタル庁が始動開始となるので大いに期待したいところです。

現在医療に従事している方々は金の為に頑張っているわけではないと信じますが、命をかけている医療者が金銭的にも公平な保障がなされないなら、これも医療崩壊と言うべきではないでしょうか。

カードを飲み込むATM

6年前のことです。フランスのニースに夕方到着してユーロを手元に持っておくべく、デパートの一階にあるフランスの某銀行ATMで金を引き出そうとしました。世界中で使える英系のカードを入れ180ユーロをどのような札の組み合わせで引き出すかというボタンを押すも、何か文字が出たまま、札が出てきません。おまけにカードも飲み込まれたまま。すべてのボタンを押してもATMはウンともスンともいわないのでした。

通りかかった親子に事情を話すと、連絡先と書いてあるところに電話してくれたりしたものの、つながりません。親子には英語が通じず、小生のフランス語レベルは小学生以下です。

小生の後にATMで金を下ろしに来た年配の女性は自分のカードで引き出せたようなので、事情を話すと近くにある某銀行の場所を教えてくれ、紙にフランス語で事情を書いてくれるなど、ものすごく親切でした。後になって、飲み込まれたカードは銀行で保管されるということが分かったのですが、そんなことはツユ知らず、誰かの手に渡ってしまったらと思うと気が気ではありません。

やがてデパートのセキュリティー係を捕まえて事情を話し、デパートの受付が銀行に電話。結果、本日銀行は休みなので明日行ってみるようにとのこと。すったもんだの挙句3〜4時間その場にクギ付けとなっていたのでした。

救いはニースの人は皆とても親切だったこと。一般的にフランス人は個人主義で人に冷たいと言われていますがそんなことは全くなく、困っている人を助けようという気持ちは全員共通のものでした。日本で外国人が困っていたら、ここまで親切にしてあげられるでしょうか。

翌日、銀行は休みでも場所だけは確認しておこうと教えられた場所へ。1人行員がおり、説明によるとカードは一週間に一度本店に集められ、そこでしか受け取れないとのこと。本店はプロムナード・デ・ザングレという海岸道路の一本内側にあるとのこと。その場所へ赴き某銀行のベルを鳴らしてみましたが誰も出てきません。

ラッキーなことに某銀行の隣に飲み込まれたカードの発行英系銀行が並んでおり、行ってみると3名勤務中。事情を話したところカードは他行のことなので何ともならないが、現金は用立てることができるということで、セキュリティー上の様々な手続きを経て200ユーロを受け取ることができました。

カードが戻ってくると言われていた、4日後再び某銀行へ。ところがなんとカードは戻ってきておらず、あと1~2週間かかると言われ、危うく日本語で啖呵をきりそうになりました。これまで約8時間余りの時間を費やしたのです。そして明日が帰国予定日。マネージャーの男が言うにはカード発行銀行に行ってopposition(suspend。差し止め)の手続きをとり、その後の手続きは同行でやるようにとのこと。英雄ナポレオンを産んだこの国の銀行の辞書には「不可能の文字」しかないのか、と思い切りイヤミを言ってやりました。

みずほ銀行のATMで飲み込まれたカードが戻ってこず、様々なトラブルが重なって頭取が謝罪するという事態に至りました。その場から動くこともできず途方に暮れた預金者には同情を禁じ得ません。同時に日本の銀行でもこのような不始末がおきたことはまことに残念。原因はよくわかりませんが、どこの国でも起きることのようなので参考のためブログにしておきます。

幸せの測り方

ヒト同士の接触を避けるためソーシャル・ディスタンスが世界の常識となっています。挨拶のプロトコールとしての握手、ハグやキスですらその代わりに肘と肘を合わせるという味気ないものに変わってしまいました。ヒトの幸せホルモンであるオキシトシンは手を握ったり抱擁しあったりすることで分泌されるものとされています。ソーシャル・ディスタンスによりオキシトシンの分泌は抑制され、世界の人々の幸せは少なからず奪われているものと思われます。


幸せは「快」の程度によって左右されるともいえます。「快」を司るのは脳から分泌されるドーパミンとかエンドルフィンと言われておりこの脳内物質が受容体に受け止められたときに人は快感を覚えるようにできているようです。


何によって「快」を感じるかはヒトによって個体差がありますが、精神的な充足や達成感、他人からの認知やふれ合いなどでもこの脳内物質は分泌されます。様々な社会的刺激を「快」と認識して分泌量が決まってゆくとすれば、社会性が制限されるソーシャル・ディスタンスは快感も制限しているということになるでしょう。


一方、出社しなくても仕事は出来るということが判明したため、ワーケーション(バケーションを楽しみながら仕事もするというスタイル)を実行する人々もでてきています。気持ちのよい環境で気持ちよく効率的に仕事が出来るということになれば、脳内には喜び物質が溢れ出てくるという効能もあることでしょう。しかしどのように評価されるか不安、などマイナスの側面もあるようです。


ヒトは幸せを感じていると免疫機能が高まり病気にもかかりにくくなり、逆にストレスが溜まると免疫機能が低下します。ソーシャル・ディススタンスや自粛は短期的には命を守るかもしれませんが、長期的には健康を阻害する要素のほうが大きそうです


コロナの影響でヒトの幸せがどのくらい減っているのかを測定することが出来るかもしれません。オキシトシンとドーパミン、エンドルフィンの総量を測定して(そんなことができるのかどうかわかりませんが)ソーシャル・ディスタンスの程度や頻度によってそれらがどのように変化するか関係づけてみるのです。人類の幸せの為に何かをする、とかいうと気恥ずかしくなりますが、科学的データでそれが可能ならやってみる価値はあるのではないでしょうか。


以前、幸福をGDPで語るのはもうやめようという提案がありました。では何で測るのかについては語られていなかったように思います。幸か不幸かコロナのおかげでそういう測定も不可能ではない環境が出来てしまったので、我こそはと思わん方はやってみてはいかがでしょうか。ことは人類全体の幸せにつながることなのでもしかするとノーベル賞も夢ではないかもしれませんよ。

自由と自粛

人は生まれながらにして自由で、その果実を享受する権利を有しています。自分のしたことに責任を負いさえすれば、何をやろうと人からとやかく言われることはありません。好き勝手なことをして痛い目あうのも自由、自分で責任をとればよいだけです。一つだけ制限があり、それは「人に迷惑をかけてはならない」ということ。我々はずっとそういう世界で生きてきました。そして今後もその世界は続いてゆくだろうと思っていました。


いきなり降って湧いたコロナという感染症が、自由を奪ってゆきました。多くの国でロックダウンにより移動の自由が奪われ、我が国でも自粛という名のもとに行動や活動に大幅な制約がかかりました。法的な強制力はなくとも自粛に従ったのは感染を恐れたからのみならず「人に迷惑をかけるかもしれない」ということを恐れたからなのでしょう。自分に症状がなくとも他人に感染させてしまうかもしれない、そして最悪人の命を奪うかもしれないというウイルスを前にして、人々は自粛を受け入れたのだと思います。


未だにしっくりこないのは「人への迷惑」というのがコロナ感染による、という一点に偏り過ぎていたのではないかと感じられるからです。我々は自由主義経済の下で生活しています。企業が活動できなくなれば従業員、顧客、社会に対して大きな迷惑をかけることになります。その重さと重大さはコロナ災害以上のものではないと言い切れるのでしょうか。他人の自由に制限をかけるには相応の覚悟と慎重さが要求されるはずです。国や自治体が国民の活動や事業に制限を加えるなら当事者にとっては極めて大きな迷惑となり得ます。


自粛に伴う損害が補償されたとしても、完全に収束するまでの全額の補償など財政的にも不可能です。また今や再び起きるかもしれない感染拡大への懸念も生まれておりいつまで自粛を続ければよいのか、答えはありません。


我が国の感染者や死亡者の数は欧米諸国と比べて幸いにも2桁少ない状況にあります。それでもコロナ感染はより重大なリスクとして経済も移動も大幅な制限をかけてきました。
憲法の規定では、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする」となっています。


今回の対応は“公共の福祉に反しない限り”という観点から比較したとき緊急事態宣言のタイミング、外出自粛や休業要請は正しかったのか、自粛期間は妥当だったのか、公平性は担保されたのか等、今後のためにも検証されるべき課題だと思います。
基本的人権たる自由の制限を最小にする努力を疎かにすべきではありません。

チャンスがピンチに変わる時

経済活動が殆ど停止してしまった世界で、人々の生活や命をつなぎとめる役割を各国政府が一身に担っています。そのために支出されている財政支出額はすでに異常な額に達しています。感染者、死亡者の一番多い米国の財政赤字額は4兆ドル規模と見込まれ、前年(2019会計年度9840憶ドル)に比べて4倍もの水準です。

急激な財政支出は政府債務残高を押し上げており、債務残高のGDP比は米国131%(第二次世界大戦直後の119%をすでに超過)日本の同数値は250%を突破の見通し(2020.4.19日経新聞)、ユーロ圏の数値は111%(前年85%)と大幅膨張の見通し(2020.5.1日経新聞)となっています。

財政が持続可能となる条件は、債務残高のGDP比が発散しないことというのがファイナンスの常識です。ロックダウンや自粛が長引くほど政府は失業や休業の支出が増え、分子の債務残高は膨張します。一方、分母のGDPは経済活動の停滞により大幅縮小が不可避。結果は財政持続可能性に大きな疑問符がつくということです。

経済の回復遅れは、国の破綻につながりかねず時間との勝負の様相を呈しています。欧米諸国が感染再拡大のリスクを抱えながらもロックダウン解除、経済活動再開を許可したのは感染状況の見極めによるものばかりではないと思われます。

財政状況の悪化は長期金利上昇、中央銀行によるマネーサプライの供給は通貨安のリスクを伴っています。新興国(東南アジアや南米など)元々債務を多く抱えていましたが、コロナ対策のための財政出動、財政悪化が加わって通貨安が加速しています。通貨安は輸入物価上昇によりインフレを引き起こし財政悪化の悪循環に見舞われることになります。

産油国もオイルに対する需要急減などにより原油価格が下落、高い価格に支えられて好調だった経済が暗転、財政悪化により投資マネーの引き上げも視野に入ってきているものと思われます。

過去に起きてきた様々な問題は、単独で時間差をもってふりかかるのが普通でした。今回これらのリスクが一挙に同時に至る所で発生しています。どこで問題が起きても不思議はなく、連鎖的に発生する恐れも高まっています。

感染に関しては世界各国で制限が緩められ明るさも見え始めています。株価も驚くほどの下げを記録した3月から順調に回復しているように見えます。これはチャンス到来なのでしょうか。

今後の世界は、応急処置によって持ちこたえてきた施策の限界が見え始める局面に入ってゆくはずです。上記をはじめとして様々な所に埋まっている地雷(経済リスク)には十分すぎるほどの注意が必要となるでしょう。長期に亘る自粛を保ちながら以前のような実体経済に戻す(V字回復)のは言われているほどたやすいことではないと思われます。

色即是空の世界

コロナウイルスの感染者と死亡者の人数報告が日常となっています。日々増加する感染者。世界中の国々が今はとにかく感染を抑えようと、自宅に留まり外出を控えることを徹底しようとしています。今のところそれしか人の命を守る方法がないということでの外出自粛ということです。


これで事態が収束に向かってくれればやれやれ、ということになるのでしょうが長期化する可能性も否定できません。その場合クローズアップされるのが経済的な問題、収入の減少や失業者の爆発、企業倒産、さらには国家財政の破綻などです。長期に亘って経済が止まることは実体経済の崩壊を意味します。


1929年、米国の株価大暴落に端を発した大恐慌では経済の縮小により各国の失業率は20%以上へと転落し、貧困や病、更には自殺などにより多くの人の命が失われました。今回の問題はウイルスの拡大によりヒトの動きが止まったことによるもので、それが全世界で起きているので影響は大恐慌以上になる可能性も否定できません。(短期に収束できない場合)


「ヒトの命を守る」ことが最重要であるのは当然のことですが、命のはかなさは病だけに起因するわけではありません。経済の激しい落ち込みによって尊い命が失われるという現実は過去に何度も発生してきました。日本の失われた20年では自殺者の数が異常な数に膨れ上がったのは記憶に新しいところです。


今はとにかく感染拡大を防ぐことが先決ということで、人の移動や接触を伴う経済活動は自粛すべしということになっています。しかし感染は1~2カ月で消えてなくなるのでしょうか。収束が思うように進まなかった場合医療と経済活動のせめぎ遭いはより激しく厳しいものとなることが予想されます。感染拡大防止と経済活動制限の折り合いをどこでつけるのか。日本が直面しているのは感染阻止の問題だけではないはずです。都市封鎖まで踏み込んだ諸外国の経済縮小、それを織り込んだ自粛と活動の線引き判断ではないでしょうか。


仏教哲学の核となる言葉に「色即是空」があります。この世の物や現象(色)は時々刻々と変化しており、恒常不変の実体は存在しない(空)ということのようです。世界の情勢に目を向けた時この言葉の意味するところが正に発現しているような気がします。我々が日頃存在しているのが当然と思っていた様々な財やサービスなどの経済実体が一挙に消えてしまいました。この言葉と対をなす「空即是色」の世界に一刻も早く戻ることを願わずにいられません。

2000万円不足?

金融庁・金融審議会の報告書が、平均的高齢夫婦世帯では、年金だけでは2000万円不足と指摘したことがクローズアップされ社会問題化しました。同報告書によると「老後の生活設計を考えたことがある」人は全体の67.8%、30代以上で軒並み50%以上、その理由としては「老後の生活が不安だから」であり「お金」が主要要因になっていることが窺える、とされています。


人間は過去を懐かしんだり悔んだりしながら現在を生きていますが、将来がはっきりと見えている人は一人もいません。不安というのは何がおきるか判らないがゆえに生じる妄想の産物です。但しこれまで生きてきた経験から現在の延長線上に起きるであろうことを思い浮かべるので、単なる妄想よりは実現性は高いのでしょう。


不安の源は2000万という数字ではなく、酷い目に合うことなく人間らしく生を全うしたいというささやかな望みに対する懐疑にあるのではないでしょうか。将来そのような境遇に合わない為に必要なのはカネだけではないでしょうが、あれば少しは安心できるだろうからということで目安として提示したところ、逆に不安を煽る結果となってしまったということかもしれません。


年金だけでは足りないのは皆分かっているでしょう。その不足を長期の投資で補ったらどうか、というのも間違ってはいないと思います。ただ政策担当者たる国家が、個人だけに責任転嫁するというのはいかがなものでしょうか。


政治の第一義的使命は何でしょうか。小手先の制度改定によりパッチワークを続けることなどでは決してありません。国を豊かにして生活のレベルをかさ上げすることにあるのではないでしょうか。「失われた20年」のような状況に陥らないようにすること、不幸にも陥ってしまったなら早急にそこから脱出させることです。世界を見渡しても今後世の中が良くなっていくとは考えにくい状況にあります。どのような舵取りをすればこの目的を達することができるのか、与党のみならず野党も第一義的使命を全うする決意と覚悟が望まれます。


国民は報告書の提案のように投資のための金融知識を身につけていくべきでしょう。一方、国の経済を継続的成長に導ける能力のある政治家を見極め、選ぶことも同じくらい重要な一歩であると思います。20年後の将来、GDPが右肩上がりを続け2000万円問題は過去の笑い話であったという報告書が提出されることを期待しています。

ベトナム ダナン旅行記



3月中旬、ダナンへ行った。南北に細長いベトナムの中ほどに位置する場所で、ベトナム戦争の頃米軍の駐屯地のあったところ。長いビーチに面したリゾートで、寒い日本から飛んでくると頬も緩む。

ビーチから道路を渡った道沿いにはレストランが多い。レストラン前には水が張ってあるたらいがいくつもあり、その中に生きた魚や貝、エビ、ロブスターまで。ここで好きなものを指さすと新鮮なまま調理されて出てくる。

ビーチサイドには軽食も採れるバーがある。陽が傾きかける頃、バーの椅子に腰かけて海を見ながら酒を飲む人多数。これは贅沢、お気に入りの場所となった。




ダナンはこのビーチを売りものとしており、すでにホテルは山ほどあるが、なんせビーチは長いので新しいホテルがどんどん出来ている。

ダナンを南に30Km行ったところにある町ホイアン。街全体が世界文化遺産に指定されている。

16世紀末以降、国際貿易港として繁栄。ベトナム政府も観光スポットとして力を入れている場所だからか各ホテルからは無料のシャトルバスがでている。夕暮れ時ホイアンの街は提灯の光に照らされ、中国人街を中心に古い歴史的建造物とそこで買い物や飲食を楽しむ人々で賑わう。




ダナンの北100Km、ベトナム最後の王朝本拠地跡フエ。中国支配から独立、13代続いたが1883年フランスにより占領された。その後べトナム戦争時にはこのあたりが最大の激戦地となる。

門をくぐって正面の建物は68年のテト攻勢で完全に崩壊、王宮の80%が焼失。TVカメラが初めて戦地に入って世界中に放映されたのでフエの名前は一躍有名になった。




欧、米等の列強のエゴに翻弄され、歴史の荒波にもまれ続けたベトナム。しかし現在進行中の米中貿易戦争はベトナム発展のチャンスにつながる可能性が高いとみなされ始めている。

中国企業はベトナムで生産して、ベトナムから輸出することで米国の制裁関税を免れ得る。また、これまで中国を製造拠点としてきた国々も米中貿易戦争の影響を避けるべく製造拠点をベトナムに移しつつある。中国にある米国企業も生産拠点をベトナムに移しているようだ。

ベトナムは棚ぼたの利益を生産と輸出の両面から得られることになりそうである。今度こそ「苦あれば楽あり」ということになってほしい。

優秀な血統のうそ

一昔前と比較すると、個人の満足度は格段に上昇しているのではないでしょうか。モノやサービスにコストがかからなくなってきたからです。必要なサービスのみにカネを払えばよいので、個人が保有しておかねばならない金銭は少なくて済みます。コストがかからないのに、提供されるモノやサービスの質はどんどん良くなっているのを実感します。

例えば情報。座ったままでkey wordを入れれば良いだけです。Googleなどがなかった頃には本屋や図書館を巡り歩いてようやくたどり着けるのは求めていた情報の一部に過ぎない、というのが普通でした。SNSがなかった頃、人と人のつながりは長い付き合いでもない限り限定的かつ浅薄なものに過ぎなかったのです。

音楽や動画、写真なども、驚くほど多様な選択肢の中から自分の好みの1つをたちどころに廉価で入手できるようになっており、医療分野においても多数の患者の画像データを蓄積、分析することでより正確な病名や治療法が見出されてゆくのでしょう。健康や長寿も夢物語の話ではなくなっています。満足度と幸福感がパラレルな関係にあるなら、人々は昔よりずっと幸せになっているのではないでしょうか。

事実を裏付ける真実の特定精度も向上してゆくことでしょう。
データ・サイエンティストと言われる人々は事実と相関性の高いデータを見つけ出すことを仕事としています。例えば優勝する確率が高い競馬馬はどのような特性をもっているのか、一般的には勝率は血統だと考えられており、馬主は血統の良い馬を高いコストをかけて入手しています。

ところが、あるサイエンティストは本当の特性を見事に言い当てることが出来ました。競馬馬が優勝できるか否かは左心室の大きさによると見抜いたのです。(「誰もが嘘をついている」Everybody liesより)今後、人類も世界も加速度的に進歩してゆくと思われますが、何がこうした満足感や進歩を支えるのでしょうか。

ゼロに近い値段でサービスを提供したり、真実にせまったり、を可能にしているのはデータです。企業は膨大なデータを収集、加工、提供して効果の高いソリューション(広告など)を提供し、そこから得た収入でサービスの利用料金を低下させるという循環を繰り返します。最近は「データの価値」にスポットライトがあたっており、世界に溢れるデータを集めることがこうしたビジネスを可能ならしめているのは事実でしょう。


ただ、既に長い月日が流れ今や当たり前の感覚になっていますが、データがその価値を実現させることができたのはアナログをデジタルに変える技術があったからです。血統が優れていてもタフな心臓がなければ勝負に勝てないという事実を見逃してはなりません。ビッグデータを形にしているタフな心臓。それはデジタル化技術ではないでしょうか。

損をするのが好きな人

日本人は投資より貯蓄を選ぶ人が多いのですがなぜでしょうか。以下のような理由が考えられます。勤勉が美徳という昔からの教育の結果、「濡れ手に粟」のような利益を追求する投資はけしからんという倫理観に基づくもの、投資はリスクがあるので例え利息が微々たるものであっても損失の発生しない貯蓄のほうが安心であるという心理的安定志向によるもの、投資は難しくうまくいくかどうかわからないのに長い時間をかけて学ぶというのが面倒という時間対効果を重視した効率面からのもの等です。

日本と米国を比較した場合、この投資と貯蓄の割合が著しく異なることは毎年公表されている資金循環統計の比較により明らかです。家計金融資産に占める貯蓄の割合は、米国13%に対して、日本52.5%、株、投信等投資割合は米国48%に対して日本14.9%となっています。(2018.3末 資金循環統計)

いつまでたっても貯蓄偏重の傾向から抜け出せないことに問題意識を持った政府はNISAなど新制度を導入して貯蓄から投資への流れを作ろうとしました。NISAとは一定額の投資から生じる利益に対して通常ならかかる税金を0にするというものです。

問題は利益に税金がかからないようにすれば人々は貯蓄より投資を選択するようになるのか、ということです。利益がでても20%近い税金がかからないのはありがたいことではありますが、投資は利益がでることもあれば、損がでることもあります。一般的に人々が投資に向かわないのは「損をするのが嫌だから」という気持ちによるところが大きいのではないでしょうか。

利益に税金がかからないと言われて、それでは投資してみようと思う人がどのくらいいるのか、よくわかりません。特に貯蓄から投資への流れを作るという趣旨から考えると、初めて投資を考えている人の背中を押すには損が出ても一定の救済措置がある方が有効だと思われます。

具体的には給与収入から投資損失を一定額控除出来るという税制を導入するというのはどうでしょう。現在の証券税制において、損失が控除できるのは有価証券の利益との間のみとなっています。投資損失が出ても収入からも損失を控除できるならリスクはとりやすいと思われます。

損をするのが好きな人は日本にも米国にもいないはずです。ただ、有価証券からの損益通算に加えて、他の収入からも一定額損失控除できるという税制を導入している米国で、貯蓄より投資を選択する人が多いというのは自然なこと。貯蓄と投資の割合に差がでるのは国民性というよりも税制の違いにあり、ということかもしれません。